言葉と鉛筆で描く日常風景 読書・思想

梨木香歩さんの「冬虫夏草」。

今日、小説を購入した。
梨木香歩さんの「冬虫夏草」。

僕が日本語の小説を購入するのも読むのも、15年ぶりくらいだろうか。
90年代後半頃から、僕は本屋の中を漂流するようになった。
新しい物語を希求しながら、読みたいと思う本が見つからなかった。

梨木さんの小説は、僕が子供の頃から読み親しんできた、言葉の深遠が計り知れないような重い本ではない。
でも、それだからこそ寛いだ気分で読むことができる。
どちらかと言うと絵画を思わせる描写だ。

梨木さんが使用する華美な言葉、登場人物の清々しい人格、匂い立つような空間描写、そして魅入られるような時間、それらはかつて夢想した世界を構成していた要素でありながら、全くの未知の世界でもある。

一行に包含された言葉たちが乾いた心に沁み込む。
独りで居る時、抱き締めたくなる本。

ノルウェイの森(村上春樹著)

 今日、タイ語版ノルウェイの森(村上春樹著)を読み終えた。僕がタイ語版を読むのはこれが2度目であり、他に日英語でも十数回読んでいる。

 この本を読み終えた時、いつもどうしようもない孤独感に襲われる。なぜだろうか。若い頃は、たんに物語そのものが終わることからくる寂しさからそう感じるのだと思った。が、いつ頃からか、別な要因があることに気づき、やがてそれが主要な理由と考えるようになった。

 優れた本は、読む度に新しい感覚を読者に与えてくれるものだ。それそのものは自身の発展を意味し、無論悪いことではないのだが、自身の感覚が変わることで、それまで周囲との間でとっていた微妙なバランスが崩れることがある。もう少し具体的に言えば、例えばそれが恋人や友人との別れの遠因になったりもする。

 よく考えてみれば、ノルウェイの森という物語そのものがそうだ。誰かが何かと出会うことにより内面に変化が生じ(成長し)、それまで住んでいた世界から各々が別な方向へと歩き出す。そして、その過程で当然別れが生じる。皆、歩き出すときはひとりだから、誰かの温もりを求めるのだ。

司馬遼太郎の言葉~「ロシアの脅威」から

「明治のその時期までの、いわゆる偉い人たちは、結局のところ正直なところがあるなということでした。
日本はこれだけしか米粒がないんだ、お金はこれだけしかないんだということを、わりあい正直に言っていました。」 (講演ロシアの脅威/
司馬遼太郎)

 合理主義というのは、リアリズムから生まれる。そしてリアルに物を見るということは、正直に見るということでもある。

 司馬氏が上で言う「その時期まで」とは日露戦争のことである。地を覆うほどの大国ロシアに勝利するにはどうしたらいいか、そういうことを真剣にそして正直に考えた結果、緒戦で勝利した後アメリカに仲裁を頼み痛み分けにもっていくというプランを描いた。
 しかし、その後「勝った、勝った」ということだけが強調され、様々な神話が生まれ始めた。つまり、人々は正直にリアルに物事を見るのを忘れ、物語のなかで思考を旋回させ始めたわけだ。

 僕は物語が好きだが、自身で何かを観察する場合、リアリズムから離れぬよう注意している。何故なら、そのスタンスを忘れると創造が妄想に変わってしまうからだ。

司馬遼太郎の言葉~「ものを見る達人たち」より

 「リアリズムということは物を見ることです。物を見るということをいちばん商売にしているのは絵かきです。ダ・ヴィンチやミケランジェロはリアリズムです。精密な恐ろしいような目で、あるいは神のような目で肉体なら肉体を見る。」 (ものを見る達人たち/ 司馬遼太郎)

 司馬氏は学徒兵として体験した太平洋戦争、そして戦後の学生運動等を通し、それらに欠けていたもの、すなわちリアリズムを考え続けた。「コップの中で思考を旋回させ、コップの外を見ない」から身を過つと彼は言う。

 物を観るというのは忍耐と体力に恵まれていないとできない。納得がいくまで雨の日も雪の日もじっと対象を観察し続け、また別なときには対象を追いかけ幾日も歩き続ける。そうやって鍛え上げられた目で物を観る。

 優れた作家とそうでない作家の違いは何だろうか。僕は、ストーリーではなくリアリズムだと思う。優れた作家は、背景を詳細に描く。「この人はどこかでこの光景をじっと観察し、それを文章としてどう描こうかと思考を巡らしたんだな」と本を読んでいて思う。

 僕たちは、そういう優れた作家や画家が特殊な目で観察した事物を、作品を通して知覚する。だからこそ自身にとって何でもないような風景や事象が深い意味をもつことに気付き、それに心を震わせる。

旧約聖書の言葉~ヨシュア記より

And they utterly destroyed all that was in the city, both man and woman, young and old, and ox, and sheep, and ass, with the edge of the sword.

 彼らは町に住んでいたすべての生き物を殺し尽くした。男も女も、若者も老人も、そして牛や羊、ロバまでも、剣の餌食にした。(ヨシュア記 6:21)

 上は旧約聖書のヨシュア記の一節で、神がユダヤ民族に与えると約束したカナンの地(パレスチナ地方)を彼らが実際に先住民族から奪い取る際の場面だ。

 さて、以前ある知人が旧約聖書に書かれた一節一節を挙げて、中東で現実に起こっていることとリンクさせ、「聖書のこの部分は、この事件に関する予言だ」という旨のメールを幾度か送って来たことがあった。アメリカがアフガニスタンやイラクで戦争を始めた頃のことだ。

 旧約聖書は、古い時代に書かれた神話であり、またユダヤの民族史という側面をもっている。だから、そこに記されていることについていちいち目くじらを立てることはない。

 だが、その神話という観念的な世界を現実に持ち出してくる行為にはある種の危険が伴う。上で彼は「聖書のこの部分は、この件のことを言っている」と述べるに止まっているわけだが、人間の思考上では、ふとしたきっかけでそれが「こうなってもいい」となり、やがて「こうなるべきだ」と変転しかねない。そして、それらは言葉の上ではほんの些細な変化だが、具現化するととんでもない災禍に拡大するのだ。

 観念的な世界で人間の命をどうこう言うのは容易だが、彼の挙げた事件ではいずれも非戦闘員、つまり老人や女性、子供まで命を落としている。そこに視点を置いたとき、例えば眼前で異教徒・異民族の母親が怯えながら子供を庇っているとき、彼はまだ自分の大義を口にし得るだろうか。
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