言葉と鉛筆で描く日常風景 201410

死と愛~ヴィクトール・フランクル

 オーストリアの精神医学者フランクル博士は、個々の人格を世界で唯一無二の存在と規定し、その人格に属する時間(刻々と流れる時間軸の一瞬一瞬)はすべて独自で1回限りのものであると説いた。

 上記により、人間存在に関する重要な二点が既に言及されたことになる。すなわち、個人はすべて唯一無二の存在であるが故に、「死んでよい人間など一人もいない」ということであり、次にその個人に属する時間はすべて独自で1回限りのものであるが故に、「この人の将来には見込みがない」などということは何人たりとも言い得ない(傾向性は未来を決定しない)ということである。

 私という人格に付随する一瞬一瞬はすべて独自で1回限りのものである。だから、私は絶えず訪れる今を意識しそれに責任をもつべきである、と博士は言う。「今を意識し責任をもつ」とは、すなわち、「自分の人生の一瞬一瞬に意味を与え、記憶として過去へ送る」ということである。

 博士は人生の意味性(価値)について、①体験価値、②創造価値、③態度価値の3つのカテゴリーを挙げている。

 体験価値とは、他者という世界で唯一無二の人格を体験することである。愛は相手の人格を直接的に体験する究極の体験価値であるが、それ以外にも相手の手紙や芸術作品等を通してその人格を体験することができる。

 創造価値とは、世界で唯一無二の人格として個人が能動的に外界へ働きかけることである。上の体験価値を逆の方向から見た場合と考えればよい。
 ドイツの作家トーマス・マンは、その著書「魔の山」で「音楽家は時間を区切り、ひとつひとつの空間を意味で満たす」と述べているが、これは究極の創造価値であろう。

 態度価値とは、自らの意思では如何ともしがたい状況に陥った場合でも、独自性をもつ個人はなお状況に対する態度を自身で決定することができる、というものである。
 この価値は、ある程度人生経験を経ないと理解困難だと思う。ナチスのある強制収容所の壁に、「それでも私は人生にイエスと言う」という言葉が囚人によって刻まれていたという。家族・地位・財産を奪われ、なお死と隣り合わせという絶望的状況のなかで、自暴自棄になる人もいれば(当然だ)、最後まで人間としての尊厳を守り通そうという人もいる。態度価値の典型だろう。

 フランクル博士は、「人生があなたに何を与えてくれるかを問うのではなく、あなたが人生のために何をなし得るかを問え」というドイツ実存主義哲学のエッセンスを論理的に説いたと言ってもよいかも知れない。
 ちなみに、ドイツの倫理学には、「自由という概念は、責任が付随してはじめて価値をもつ」という能動的な考え方が根底にあり、これは別の機会に述べるケネディ兄弟にも強く影響を及ぼしていると思われる。

にほんブログ村 美術ブログへ
※いつも励まして頂き心より感謝申し上げます。 P.H

老人

 その老人は、身じろぎもせず椅子の上に座っていた。

 毛布ごしに見える身体の線は一見すると細く、骨張っているような印象を受けるが、よくよく観察すると前腕の先に延びる五指は鉄棒を思わせるような太さと固さを保ち、若い頃の激しい肉体作業を示していた。

 その佇まいはまるで彼自身が重力を発しているかのようにズシリと重く、目は底なしの井戸のように青く深い。

 現役時代は、教師をしていたという。

 学科を教えるというより、人の道を説いて聞かせていた頃の教師だ。
 だからこそ、このように何もかも受け入れてしまう深さと重さをもっているのだろう。

 僕は手を伸ばし、そっと彼の腕に触れてみた。

 指先から伝わって来たのは、宇宙そのものだった。
 気が遠くなるほど長い長い時間軸のうえにかつて存在したすべての命とその営みが包含された無限の空間だった。

子守唄



子守歌

その少女はおもむろに赤ん坊をすくい上げ
慣れた手つきであやし始めた

軒先に立ち
何か小さく口ずさみながら遠くを見ている

るるる・・・

その場にいた誰もがその美しい光景に目を細め
心を和ませた

5月の穏やかな陽光に浮かぶ幼い二人の姿は
人の未来そのものに思えた

A cradlesong

The girl scooped the baby up slowly and began to dandle her with a practiced hand.

She was standing at the front side of eaves, sang a song while looking at far away.

Ru-ru-ru...

Everyone who was at there smiled at the beautiful scene, melted the heart.

Two little shapes in the moderate sunshine of May looked the future of human.

遊び疲れて

カラカラと音を立ててペダルを漕ぐ少女の口から
唐突に嗚咽がもれた

大人たちと夢中になって遊んだ後に
ふと 自分があまりにも長い時間
ママから離れていたことに気づいたからだった

ママを思い出したとたん
転んだときの痛みと疲れと眠気が
わっと沸き起こった

ママ!

自転車からその小さな体を抱き上げたとき
ふた粒の滴が少女の頬を転がり落ちた

***** ** *****

ハローハロー
現在位置 ママの場所まであと8メートル


Being tired with play

Sobbing suddenly leaked from a mouth of the girl who made a rattling sound while rowing the pedals.

Because she had noticed that she was away from her mother so long time after she played with adults

As soon as she remembered the mother, a pain of the tumbling over, fatigue, and sleepiness abruptly arouse in her mind.

Mom!

When I held the small body up from the bicycle, two tear drops rolled down on the cheek of the girl.

***** ** *****

Hello hello.... our current position is 8 meter from the mother.

家族とコミュニティ



 絵の少女は、僕の住んでいるアパートの住人のお嬢さんです。
 休日、お母さんが他の住人たちとお喋りしている間、よくこの子と遊びます。

 アジアではまだ一族が近隣に集まって生活していることが多く、どこかの家に赤ちゃんが生まれると、既に子育てを終え時間もたっぷりあるプロフェッショナルな女性たちが交代でその子の面倒をみます。
 その間、お母さんは家業の手伝いをしたり友達とお喋りをしたりして自分の時間を過ごします。
 つまり、若いお母さんが子育てで孤立しないような仕組みができているわけです。

 地方から都市部に出て来ているお母さんの場合、アパートがコミュニティになっていて、一族が果たす役割の幾ばくかを住人たちやアパートのオーナー一族が代わって行います。
 もう少し正確に言えば、意識的にそうしているわけではなく、ごく自然にそういう関係ができあがります。

 ボール遊びやお絵描きなどは僕が相手をして、ぐずり始めると女性の住人へ引き継ぎます。
 いけないことをした場合、グランドマザー(オーナーのお母さん)のいるテーブルに、子猫みたいにちょんとのせます。そうすると厳粛なお説教が始まり、子供はきょとんとした顔でそれを聞いています。

聖書~言葉

 In the beginning there was the Word. The Word was with God, and the Word was God.
 はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉はすなわち神である。 (新約聖書 ヨハネによる福音書)


 学生の頃、僕はこれを「言葉は、神が人間に対し特別に与えたものであるから、人間はそれを善に基づき大切に使わなければならない」と解釈しました。

 後年、キリスト教徒である知人が、ここで言う「言葉」というのはキリストのことで、その意味するところは僕の解釈とは全く異なる、ということを教えてくれました。

 ただ聖書が、神の言葉を装い民を間違った方向へ導く偽の予言者や言葉を恣意的に用いる者を嫌っている点からすれば、僕の解釈はあながち見当はずれでもないと思っています。

 言葉を大切に使うというのはとても難しいことですが、日々自身を省みながら、不適当な言葉や人を傷つける言葉を使わぬよう注意しています。

In the beginning there was the Word. The Word was with God, and the Word was God.  (New Testament- John 1:1-2)

I happened to meet this sentence when I was a college student. I interpreted this as human must use it based on righteousness carefully

Later, one of Christian had taught me that Word in this sentence means Christ. Hence my interpretation was not correct.

However, I think that I may have not missed the point. Because Bible blames fake prophet who disguise God's word and lead people to incorrect way or those who use word arbitrarily.

It is very difficult to use word carefully. So I've been reflecting my mind everyday, and be careful to not misuse it, not use word which harm others.

にほんブログ村 美術ブログへ
※いつも励まして頂き心より感謝申し上げます。 P.H

賑やかな休日



 休みの日は、大抵アパートの敷地内にあるガーデンチェアに座って、現地語に訳された日本の小説を読んでいます。

 すると、何となしにオーナーのお母さんや清掃の女性、住人の子供などが集まってきて、おしゃべりをはじめます。

 「オーは日本語で何というんだ?」
 「このお花を描いてごらん」
 「スワイ・ディー(すごく綺麗)!」
 「私は9人兄妹の3番目」
 「あそこに雀の巣があるんだ」

 などなど、とても賑やかな僕の日曜日です。

会話



 「さっき、黒い犬がレストランに入って行ったよ」
 「イツモイツモ」

 この女性の言葉は、それが中国語・タイ語・英語・日本語のどれで語られても長く記憶に残ります。

 今回は短い日本語でしたが、それは「言葉の音」として聴覚を介して中枢神経に届くというより、心のなかの湖に直接思念として送られ、困惑と可笑しみとそして愛情が共に幾重もの波紋をつくって水面を震わせる、という感じでした。

 誰かの日常的な想いがこんな風に伝わってくると、「今日もいいものをひとつ見つけた」という新鮮な喜びで1日満たされます。

Albert Camus/ The Plague

 Albert Camus/ The Plague (アルバート・カミュ/ ペスト)を久し振りに読みました。

 この本は、第二次大戦中のドイツによるフランス占領の際の経験が下敷きになっており、ペストはナチスの比喩として表現されています。

 本書の主題は、制御不可能な悪に対してどのように振る舞うのか、という点です。

 偶然かも知れませんが、オーストリアの精神医学者でナチスの強制収容所を生き延びたヴィクトール・フランクル博士が人生の最も重要な価値として、自身の努力では如何ともし難い困難な状況に対してどのような態度をとるのか、ということを挙げている点に深い感慨を覚えます。

 困難に在って採られた行動に関して、カミュもフランクルもその英雄性や偉大さを測るというような観点には立っていません。

 癌に犯され末期の状態にありながら、なお感覚の新鮮さを保ちたいと痛み止めのモルヒネを拒否する態度、ペストに犯されなお病と向き合うために医師の治療を拒否する態度、いずれも第三者の観点からは自分にも社会にも関係のない、従ってさほど意味のないことのように思えますが、困難を引き受け立ち向かう態度ゆえにその人生は最後まで意味を失わなかった、と上記二人の偉大な思想家は考えるのです。

 なお、この本は英語版でもそんなに難しくないので、英語の勉強をしたい方には適している思います。

I read The Plague of Albert Camus after a long time.

This story was written along the experience of occupation by Nazis in France. The pestilence was expressed as a metaphor of Nazis.

The subject of this book is how to act against the evil which you can't control.

It might be coincidence that Austrian psychiatrist Dr. Viktor. E. Frankl who had survived the concentration camp of Nazis, had said that the most important value of human life is how to behave against uncontrollable incident.

As for the attitude against difficulty, neither Camus nor Frankl stood at the point of view to measure the characteristic of hero and greatness.

The attitude of a patient of Dr. Frankl who rejected the injection of morphine at the last stage of cancer to keep the sense fresh, and the attitude of a man in the novel who rejected the treatment for his pestilence, were not a significant matter for third party because those didn't affect to their life nor society. However, Dr. Frankl and Camus thought that their life never lost its meaning because of the willingness to accept the difficulty.

にほんブログ村 美術ブログへ
※いつも励まして頂き心より感謝申し上げます。 P.H
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
フリーエリア