言葉と鉛筆で描く日常風景 東南アジア素描~施しと相互扶助

東南アジア素描~施しと相互扶助

「私は他人に施しをするほど貧しくはない。」( ツァラトゥストラはかく語りき/フリードリッヒ・ニーチェ)
 例えば、物乞いにお金をあげるという行為の背景には、良いことをして世間から認められたいという心の空虚さがある、そのような人はつまり貧しいのだとニーチェは言う。
 
 このニーチェの言葉は、僕にとって長年不可解だったし、最初に目にした時は怒りさえ覚えた。
 何故なら、日本ではそのような動機から誰かに手を差し伸べること禁忌しているし、それ以上に他人の行動をそのような歪んだ観点から見ることを忌み嫌うからだ。
 
 もともと日本では、この種の行動は施しというより相互扶助的な意味合いの方が強い。判りやすく言えば、困った時はお互い様という共同体的な習俗に由来する。
 しかし、宗教が倫理観の基礎になっている海外では、行為は近似していても明らかにそこに内包されている概念が異なる。何故なら、その種の行為は教義に付随あるいは連関する義務に属するものだからだ。そうして、どの社会においても、本来あるべき宗教的倫理を学ぶ姿勢が後退し、形骸化された行為のみが習慣として残ることがある。
 
 街角に座る物乞いにお金をあげるという行為はアジアではよく見かけるが、周囲を見回すときっとどこかにそのような行為へ向けられる冷たい、蔑んだような目に出会う。
 以前、僕の友人が大病を患ったとき、その上司が募金を始めた。治療に大金が必要な上、仕事は辞めざるを得なくなったからだという。それなら、ということで、僕も自分の絵や詩を好きに使ってくれていい、と申し出たところ、よく理解できない理由をつけて断ってくる。変だなと思っていると、友人が「あれは、他の部下に対するパフォーマンスなんだ。だから自分より目立つことをする人間を受け入れるわけがない」と教えてくれた。
 また、孤児院に寄付をしに行ったとき、同行した知人から「すっきりしたかい?」という解し難い言葉を受け取ったこともあった。子供のような笑顔をしているので、嫌味で言っているわけでもなさそうだった。
 
 上のような経験から、海外では、僕が冒頭のニーチェの言葉から感じたふたつの側面が現実にあり得ると判り、極めてパーソナルなものを除き、この種の活動から身を遠ざけるようになった。

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No title

おはようございます。
この問題は私もよく考えることがあります。
こちらでも物乞いをされている方は日本と比べ多いと感じます。

Patterson's Houseさんがされた経験はがっかりさせられるものですね・・・

そういった裏を見てしまい関わらなくなることは自然の流れだと思います。

Re: No title

キャトルさん

意味深いコメント、有難うございます。
海外に居住されている方のお言葉はとても助けになります。


このトピックはどう表現しても反感を買うだろうし、とくに国内に住んでいらっしゃる方の理解を得るのは難しいだろうなと随分躊躇しました。

それでも敢えて書いたのは、長年受け入れることのできなかったニーチェの言葉を二つの側面から体験したからだと思います。
そのようなことが現実社会にはある、それを認めることから未来は始まるのかなと思います。




周りから何と思われても。

Patterson's Houseさんの孤児院寄付の時された体験、その時の感情、とてもよく分かります。
書かれているように知人さんはきっと嫌味のつもりではないのですよね。やりたい事ができて良かったね、という好意的な意味合いも感じますものね。

私ももし何処かへ、誰かへ寄付したとしてもそれを人には言いづらいです。自己満足とか良い人ぶって、と思われそうで。

でも最近思うのですが、 寄付する人が例えニーチェに「心が空虚だね」と言われても周りに何と思われても、実際本当にその人が偽善者だったりカッコつけだとしても動機が何であれ、その寄付で誰かが助かるならどうでも良いかなーと思います(という発言もまた偽善者風。笑)

長々すみません。

Re: 周りから何と思われても。

ふゆこさん

ご返事が遅れてすみません。
それから、心のこもったコメントを有難うございます。

僕がニーチェの言葉から感じた2つの側面は、目を逸らしたいけれどもそこに在ること,それ故に敢えて彼が書いたのかなと思います。もっと考えろ、というように。

異文化のなかにいると、倫理基盤や物事の感じ方が異なるゆえに孤立しがちで、そんな時にふゆこさんのような言葉をかけてくれる人がいたら、「大丈夫、君は間違っていない」と自分に言い聞かせることができます。
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